綱吉はマフラーと手袋を手に取った。
今、綱吉は学校へ行くための仕度をしていた。いつもよりもずっと早い時間に起きて、朝ご飯を食べ、普段入ることのない朝風呂に入り、さらに入念に身体にクリームを塗り、髪を整えていた。滅多にすることがないというのに今日は制服にアイロンまでかけていたのだ。
「普段からそのぐらい早く起きて準備しろよ」
「そっそういうこというなよ!」
「正論だろ、遅刻魔のダメツナ」
う、と言葉に詰まった綱吉は準備の手を一瞬止めてしまった。
自分の家庭教師のリボーンの言うことは大体いつも正論である。今回もその通りであるし、遅刻魔も未だに治っていないことだ。
しかし、今日は特別だからこそ頑張れているのだ。自分でも現金なものだと思う。
それがなければ今日もまたいつものように遅刻ギリギリに起きて、家を飛び出して行っているのは間違いないだろう。
「きょ、今日は特別なんだよ!」
「だったら、毎日XANXUSに来てもらえば毎日きちんとした生活出来てんじゃねえか?」
「う…」
それも正論だろう。
口で勝とうとは思わないが、一生リボーンには勝てそうにないと綱吉は感じていた。
そうなのだ、今日はXANXUSが日本に来ると連絡が入っていたために、綱吉は今朝どころか三日も前からそわそわと準備を始めていたのだ。
綺麗になる努力と言って、自分の掌でも余る程の胸に対してバストアップを行ってみたり、少しでも可愛くと言ってはクローゼットの中からありとあらゆる服を出してはファッションショーのように鏡の前に立っていた。
リボーンはその様をまざまざと見せつけられたせいでこの文句の言葉を口から吐き出す結果に繋がったのであった。
「…まったく、てめえには人としての指導が必要なようだな」
はあ、と大きな溜息を吐き出し、リボーンは自らの獲物に手を掛けた。装丁音が綱吉の耳に届く。
綱吉は握りしめていたマフラーと手袋を取り落としそうになりながら、一歩身を引いた。完全に逃げ腰になっている。
タイミングがいいことに、そこで外から獄寺の声が聞こえてきた。
「十代目ぇ、おはようございます!」
いつもきっかり同時刻に、獄寺は綱吉を迎えに来たのだ。獄寺自身は何も知らないのだが、奇跡的に綱吉の危機を救った。右腕としては普段有り余る愛情を注ぐせいか優秀さが削がれているけれども、こう言った際の勘は鋭かった。
「ごっ獄寺くんが来たから、行かなきゃ!!」
綱吉はリボーンから逃げるようにばたばたと部屋の扉を開け、走って階段へと向かった。
開け放たれたドアはそのままに、いつの間にか鍛えられた脚力を使って階段を降り始めた音が聞こえてきた。この音だけは何故か毎日一緒だった。
「落ち着きねえな…ダメツナが」
リボーンがは、と小さく溜息を吐き出したと同時に銃を仕舞うと、扉の向こうからガタガタと落ちる音と爆発音が聞こえてきた。
もちろん、何事もなく階段を降りて起こる音ではないし、日常生活で聞くような音でもない。
「…何事だ」
敵襲ならばリボーンが気付かないことはないし、殺気も感じられない。
いつもであれば、綱吉がドジを踏んで階段から転げ落ちた程度のことだろうと考えるところだが、爆発音の説明がつかない。なにより音が大きすぎる。
考えているうちに、階下から獄寺の焦り切った声が上がった。
「じゅ、十代目!? 大丈夫ですか!?」
ほぼ同時にランボの鳴き声が聞こえてきた。
獄寺とランボの小競り合いがエスカレートして、そこに綱吉が巻き込まれたのだろう。
だが、リボーンの背中に妙な程ぞわぞわと嫌なものが流れていく。長いことこの世界にいて培われた勘が訴えかけるのは何であろうか?
リボーンは綱吉の勉強机から飛び降り、ぽてぽてと階段へと足を進めた。
そしてそこへは――――――。
「…バカツナが」
階下で倒れている綱吉の姿と、泣き叫ぶランボに半分魂の抜けた獄寺がリボーンの目に映ったのだった。
綱吉が次に目を覚ました時、初めに目に飛び込んできたのは真っ白な世界だった。正確に言うならば、天井のライトが眩しくてそう見えただけであったのだが。実際は天井も壁も全て何とも可愛らしい動物柄の入った壁紙が貼られていた。
「ここは?」
綱吉は自分の記憶を辿る。
確か朝に学校に行く準備をしていたはずだ。早起きをして準備をして、それでも時間が足りないと思っているところでバタバタとリボーンに追い出されるようにして部屋を出て、それから。
「…覚えてない、なあ」
記憶はそこまでだった。
大体階段から落ちたか、落ちてきた物にでもぶつかったか。そういうドジを頻繁に踏んでいることは自分でも重々承知していることである。
そして、見知らぬ天井が広がっていることからここが病院で有ることも予想がついた。
いくら頭の回転が遅くともそのくらいはわかる、というよりも経験が物語ってくれた。
「それにしても、静かだよね」
病院にしては人の声がしない。周りに誰もいないのだろうか?
ぼんやりとしたままの頭を軽く振って身体を起こすと、横にあったカーテンが開いた。
カーテンの向こうに自分の母も家庭教師も右腕と称する友人や野球を愛する友人もいたのだ。ただ、綱吉が眠っていたためにその場を離れていただけのようだ。
綱吉が起きたことに気付き、母がカーテンを開けたようだった。
「 」
一様にこちらを向き、それぞれに何かを伝えようと口を動かしていたことは綱吉の目にも映った。
ただ、その声はまったく綱吉の耳には届かなかった。いや、届いていたのかもしれないが、綱吉が音として認識できなかったのだ。
話してるはず、だよね。
綱吉は不安になり、自分の耳を何度か触れてみたが、きちんと耳は存在する。
聞こえないのだ。まったく。
獄寺のその口の動きは自分を呼んでいる時のものだ、山本のそれも自分の名を呼んでいる時のものだ。
でも、その声は綱吉には届かなかった。
綱吉の戸惑いや異変にいち早く気付いたのはリボーンだった。
すぐ医者を呼び、綱吉の変化を伝えた。
白衣の人間に一瞬びくりと反応した綱吉だったが、相手が医師とわかれば大人しくなり、診察を大人しく受けた。
大人しく、というよりは全く訳がわからずぼんやりしているという方が正しいかもしれない。
「…? あの」
綱吉は思い切って目の前の相手に声を掛けてみた。
相手に自分の声は伝わっているようで、医師が綱吉の方を向き何かを伝えようとしたようだが、綱吉にはやはりただ口を動かしているだけにしか見えなかった。
母へと向き直した医師は、暫くそちらに向けて色々と話していた。わかったことでもあったのだろうか。
耳、どうなったんだろ。
聞いてみたくても今の状況では何も、できなかった。
その後、流されるままに別室へと連れて行かれた。機械を付けられ、耳のレントゲンを撮ると移動させられ、あれやこれや検査されてぐったりとしたところで元いた部屋へと戻ってきた。
雑談でもしていたのだろう、獄寺と山本がそこで待っていてくれた。
身振り手振りで大きく腕を振り、その様だけでもいつもの光景だと思える。綱吉は二人に笑顔を見せて、ベッドへと座った。
綱吉に遅れること数分、母がリボーンと共に戻ってきた。
「母さん?」
心なしか蒼い顔をしている奈々は綱吉に向けてにこりと笑顔を向けてくれた。疲れが出てしまったのか、結果が悪かったのか。他に何かあったのだろうか?
リボーンもいつもより険しい表情をしているように見える。
「検査結果、聞きたいんだけど」
自分に起こっている状況を理解したい。綱吉は相手に聞こえるだろうとそれを大きめの声で言った。
皆が聞こえた様で、ばっと全員が綱吉を見つめる。リボーンだけが明後日の方向を向いていたが、口がちょこりと動いたのが見えた。
ああ、あの動きはバカツナ、って言ってるな。
む、とした表情をリボーンに向けると、さらにリボーンは違う方向を見た。あくまで綱吉と目を合わせる気はないようだ。
困った顔をした母が友人二人に声を掛ける、すると獄寺が携帯電話を取り出した。きちんと電源を切っていたらしく、指輪だらけの指を器用に動かして操作を始めた。
「 」
じゅうだいめ、って言ったんだよね。
獄寺がいつものように綱吉を呼んだのだろう。そして、手元の携帯を指刺して、綱吉の目の前へと持ってきた。
メモ画面に一杯に文字が広がっていた。
『十代目の耳の鼓膜の一部に傷が付き、聴力が低下しているようです。少しだったら聞き取れるらしいのですが、精神的なショックも大きかったせいで今は全く音が聞き取れていない状態だろう、とのことです』
聴力低下? 精神的ショック?
理解できずにいると、続けて獄寺が別の文章を見せてくれた。
獄寺の説明によると、綱吉は自分の部屋から出た直後に爆撃を食らっていたらしいのだ。というのも、顔を合わせるなり喧嘩を始めた獄寺とランボがそれぞれ使用した武器に対して被爆したとのことなのだ。
それぞれ虫の居所が悪く、威力は少ないものの音だけは相当の威嚇用の物を使ったせいで、鼓膜に傷が入ってしまったらしい。
ショックと言うのも恐らくその時のものだろう、ということだ。
もちろん医者には爆弾のことを伏せて伝えられている。
『時間は掛かりますがその鼓膜の傷も治りますし、少しずつ聴力も回復してくるだろう、とのことでした』
全て読み終わったところで顔を上げると、獄寺が困ったように笑顔を作っていた。必死に作ったその顔を笑っていはいけないのだが、余りに必死な顔過ぎて綱吉はぷ、と噴き出してしまう。
「獄寺くん、変な顔だよ」
そう言うと、獄寺は焦ったような顔をした。山本がその横で獄寺を茶化すと、獄寺が怒ったように食ってかかる。また、いつもの光景に綱吉はにこりと笑った。
皆が笑っているうちに、と綱吉は母に問うた。
「そしたら、さあ……おれ、入院しなきゃいけないの、かな?」
綱吉の問いに奈々は困ったように首を傾げた。この表情は肯定、だと取れる。
さあ、と綱吉は血の気が引いていくのがわかった。
一日でも入院は嫌だった。聴力がまったくないに等しい状況下で通常生活は厳しいかもしれないことはわかっているけれど、今日は!
「XANXUS…」
想い人がわざわざ日本に来てくれる日なのだ。せめて、XANXUSがいる期間だけでも入院は避けたかった。
それは母の奈々もわかっているようで伝えづらかったのだ。娘が毎日楽しみにしている様子を一番近くで見てきたのだから。
ただ、もっと大変な事態が起こってしまっている以上、綱吉にはここにいて貰いたかったのだった。
綱吉は泣きたい程悔しかったが、起こってしまったどうしようもない事実にシーツの端を握り締めて涙をこらえた。
「…何だよ、リボーン」
気付くと俯いた顔を覗き込む位置にリボーンが来ていた。
綱吉へと言葉を伝えにきたらしく、獄寺に指示をし文字に起こさせる。そして打ち終わったと同時に渋い顔をしながら綱吉に画面を見せた。
「あ、え? 嘘!?」
ぎり、とリボーンを睨むが、すでに明後日の方向を向き、したり顔をしていた。そして、綱吉の反応も予測済みだったらしく、すうと手を伸ばして入口を指差したのだ。
そこには。
「……XANXUS」
らしくなく汗を流し、髪を乱したXANXUSが部屋へと飛び込んできたのだった。
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